220年超の技術と精神を伝える清水建設の資料館「NOVARE Archives」探訪、旧渋沢邸も公開なぜゼネコンが歴史資料館を開館したか(3/4 ページ)

» 2025年10月15日 11時00分 公開
[加藤まどみBUILT]

西洋化の波を捉えた2代目

 二代喜助は、清水建設の近代化の祖といえる人物だ。初代喜助とともに江戸城西丸造営などに参加する一方で、時代の変化を捉え、開港場横浜で洋風建築の技術を習得した。明治初期には三大擬洋風建築ともいわれる「築地ホテル館」「第一国立銀行(三井組ハウス)」「為替バンク三井組」を手掛けた。いずれも文明開化の象徴となり、多くの見物客が訪れた。錦絵として全国に広まり、各地の擬洋風建築の手本になったという。

 三井組(現三井グループ)の守護神社とされる三囲(みめぐり)神社の内神殿を手掛けた縁で三井組から依頼されたのが、三井組ハウスだ。三井組の銀行として建てられたが、国立銀行制度の施行に伴い、渋沢栄一が設立に動いた日本初の民間銀行かつ株式会社の第一国立銀行へ譲渡された。渋沢は木造2層の洋風建築の上に、城郭を思わせる塔屋を載せた銀行建築の姿を高く評価し、以降、自身の関わる企業の社屋や自宅の建設を次々と依頼した。「この時に築いた顧客との関係が今につながっている」(宮田氏)という。

築地ホテル館の模型。日本初の本格的洋風ホテル。瓦屋根やなまこ壁の外壁、塔屋などを持つ和洋折衷の建物で、102の客室、暖炉や水洗トイレ、ビリヤード場などもあった 筆者撮影
第一国立銀行の錦絵。洋風建築の上に城郭のような塔屋が載る。擬洋風の最高峰ともいわれる 筆者撮影

同族経営から近代的な建設会社に転換

 3代目店主の清水満之助は経営改革に取り組んだが、就任6年で急逝。そこで、当時8歳だった満之助の長男が4代目となり、3代目の遺言に従って渋沢栄一に助力を求めた。1887年から約30年間、渋沢が相談役として清水建設の経営を指導し、事業の組織化と近代化を助言した。渋沢は清水建設の「育ての親」ともいえる存在となった。

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