インタビュー
» 2019年09月26日 06時00分 公開

“ハイドア”の先駆者に聞く「シュリンクする住宅市場で生き残るには」:なぜドアメーカーが受注依存型のビジネスモデルから脱し、売上100億円を達成できたか? (1/4)

ここ数年、建具の市場で人気の高い、天井までの高さがある“ハイドア”。アイカ工業、パナソニック、LIXILといったメーカーも、次々と高さのあるドアを開発し、ハイドアのマーケットは拡大を続けている。戦前から神奈川県横浜市に本社を置く、神谷コーポレーショングループは大手メーカーに先立つこと、2005年に主力製品となるオリジナルブランド「フルハイトドア」を立ち上げ、業績を10年で約7倍にするなど、この分野の第一人者ともいえる確固たる地位を築いている。次の戦略では、ARサービスやIoTドアなど、これまでにないハイドアの提案も視野に入れる。

[石原忍,BUILT]

 天井までの高さがある室内ドアにこだわり、この領域でパイオニアの神谷コーポレーション湘南。代表取締役社長の神谷忠重氏は、1990年代末に大手ハウスメーカーからOEMのドア製造を請け負い、厳しい経営状態に陥っていた苦境の状況から、独自のハイドアブランド「フルハイトドア」を設立し、従来型のメーカーに依存するビジネスモデルからの“脱構築”を図った。その結果、今ではグループ全体の売上高は100億円を超えるまで、業容を発展させた。

 グループを率いる神谷氏に2019年9月、横浜のショールームで、「なぜハイドアの新ブランドを創設したのか?」「市場での優位性とは何か?」など、日本のドアメーカーとして初出展したミラノの展示会で注目を集めた新ラインアップや年内に上市予定のIoTドアの紹介も交え、室内ドアのデザインポリシーと経営戦略を聞いた。

OEMメーカーに立ちはだかった壁

神谷コーポレーション代表取締役社長の神谷忠重氏 撮影:村田卓也

 神谷コーポレーショングループの歩みを振り返ると、古くは1942年に、軍用複葉飛行機の木製部品を製造する富士飛行機製造の協力工場「神谷木工所」として創業したのが始まり。1960年代には、船舶内装部材の生産にも業種を広げ、転機となる1984年に大手ハウスメーカーから「住宅内装枠付き扉」の受注・生産をスタートさせている。

 その後、現グループ名の「神谷コーポレーション」へと商号を変更し、茨城県内に物流センターや北関東第一工場などを開設するなど、首都圏で最大クラスの生産設備を保有する専属OEMメーカーとして、20年近く相手先ブランドの供給を行ってきた。

 現社長の神谷忠重氏は、日本ユニシスを経て、1993年に入社。その数年後、今に至るまで日本経済が引きずる端緒となった不況の波に直面し、それまでの受注依存型のOEMから抜け出すための活路となり得る新業態を模索したという。


――「フルハイトドア」を立ち上げた経緯

神谷社長 自分が入社した当時の住宅市場には施主・ハウスメーカー・協力会社の“3者共栄”の考えがまだ存在していた。しかし、1998年から始まったデフレ経済の影響で状況は一変した。専属の下請けであれば、安定した受注は確保されていたものの、仕様・材料・仕入れ先まで全て元請けであるハウスメーカーの指定に従わなければならなかったため、コストダウンの要求に応えながら、自社で利益を上げていくことは、困難を極めた。そこで、以前から頭の隅にはあった下請け構造から、自社一貫生産へと事業転換を図った。

 オリジナルブランドを開発するにあたり、1998〜2000年に首都圏で建具の需要を知るため市長調査を行った。結論としては、ドアは設備・建材の中で下から数えて3番目のニーズしかなかった。その頃は、「シンプル&モダンに合う」と営業マンは提案していたが、消費者の重要を喚起するには、もっとデザインの上位概念を生み出さなくてはと思い至った。

神谷コーポレーション横浜ショールーム
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