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防耐火について歴史から考えるー江戸から現在まで木の未来と可能性 ―素材・構法の発展と文化―(5)(1/2 ページ)

本連載では、一級建築士事務所 鍋野友哉アトリエ/TMYAを主宰する一級建築士の鍋野友哉氏が、近年環境に優しいなどの理由で関心を集める木材にスポットライトを当て、国内と世界における木造建築の歴史や最新の木造建築事例、木材を用いた構法などを紹介する。連載第5回となる今回は、日本の木造建築物と防耐火の歴史や法律について採り上げる。

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 日本では、古くから石造りの蔵など、非木造の建築物も存在しましたが、大半の建物が木を主要な構造材料とした木造建築物でした。その理由の1つには、日本が温暖な気候の森林大国で、建築に適した樹木が日本列島の至るところで採取できるという自然豊かな国土であることが考えられます。

 しかし、日本列島は、自然の恩恵だけではなく、北米プレート、ユーラシアプレート、太平洋プレート、そしてフィリピン海プレートという4つのプレートがせめぎ合う、世界でも類を見ない火山国であり、過去に何度も大地震に見舞われてきた自然災害の国でもありました。

 そして、北半球に位置しつつ南側に世界で最も広い大洋である太平洋に面していることから、夏から秋にかけて台風が襲来してきます。日本の長い歴史の中で、地震と台風という大きな2つの自然の力にあらがいながら、この列島は生きてきました。

 国内では、組積造系※1の建築物はコストがかかる割に大地震時に倒壊してしまうため、西洋諸国のようにいったん石で建築を作れば数百年間使い続ける、という方法は定着しなかったのだと推察されます。一方、木造は、組積系の構造に比べて軽いですが、強風には弱いため、瓦屋根をはじめ、石置屋根など、強風対策のために各地でさまざまな工夫がなされてきました。

※1 組積造系:建築で、れんが、石材、ブロックなどを積み重ねて作る構造

 さらに、木造建築は、組積造の建築物と比べると建設時の施工期間が、圧倒的に短いことから、劣化や損傷したら修繕し、建て替えるという習慣が根付きました。江戸時代以前の日本では、重機のような人力を大きく超える道具はまだ存在しなかったので、大きな石を用いた工事は一大工事であったことは想像に難くないでしょう。


葛飾北斎の絵画「富嶽三十六景本所立川」で描かれた材木問屋の様子 出典:パブリックドメインQ

 上記のように、日本の町はしばらく木造で作られてきましたが、この木造都市の弱点であったのが火災でした。「火事とけんかは江戸の華」という言葉に表されるように、江戸の町では頻繁に火災が発生していた事は多数の文献によって記録されています。例えば、江戸時代にあたる1657年に起こった有名な「明暦の大火」は江戸の町の大半が消失した事件としてとても有名です。漆喰(しっくい)などで防火被覆が施されていた建築物は、蔵などの一部の限られた建物であったため、ひとたび火災が起こると一気に燃え広がってしまいました。

 加えて、現在の民法にもこの名残は生きており、1899年に制定された「失火ノ責任ニ関スル法律」では、失火者に多大なる責任がかかってしまう事から、軽過失の場合は損害賠償責任を負わないと現在でも規定されて、生きています。


江戸時代に脅威となった火事 出典:パブリックドメインQ

 このように、火事はその町に生きる市井の人々だけでなく、為政者※2にとっても、防火・消防対策という点で頭を悩みの種でした。

※2 為政者:政治を執り行う人物、為政家、当局者を指す

 江戸時代では、大火のたびに、それを教訓として御触書(おふれがき)が発効されてきました。そして「奉書火消(ほうしょびけし)」「大名火消(だいみょうひけし)」「常火消(じょうびけし)」「町火消(まちびけし)」と呼ばれる延焼を抑えるための消防組織が古くから組織されました。

 また、防火地帯「火除地(ひよけち)」の指定や屋根の仕様規定、町屋の3階建ての禁止といた規定、さらに現代でいうところの路線耐火の様な考え方による規定なども定められ、火災対策に重きが置かれたレギュレーションが数々施行されました。

 そして、昭和に入ってからは太平洋戦争での空襲により東京が焼け野原になってしまった強烈な経験から、戦後1950年に施行された建築基準法では都市部における木造の規模などを制限。例えば、木造3階建ての建設が不可能になりました。

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